会社の歴史(1)

少し時間をかけ当社の創業、いやS研究所の経営をしたあたりまでを遡り書き留めておきたい。

1972年(昭和47年)2月頃、当時私が住んでいた渦が森団地へ、兄と母親が突然訪ねてきた。当時I田青果はスーパーDへの青果納品業者のNO.1であり、順調で商いも30億を超えて、中央市場では第一位の売上であったが、人間関係のもつれで収拾がつかないと深刻な面持ちで相談してきたのだ。もうスーパーDとの仕事を止めたいと言い出す程に、兄も母も憔悴しきっており、その代わりの仕事として、1970年の大阪万博で成功させたM本氏が創業したS研究所が、M酢に売却したが経営がうまくいかずに困っているため、買収して経営をしよう考えているとのことだった。そして、その買収交渉してくれと懇願されたので、毎週土曜に愛知県知多のM酢へ通って交渉し、4月頃にある程度話がまとまりかけたので、誰がこれを経営するのかと兄、母に聞いたところ、「適任者はお前だ!」言わたのがはじまり。当時勤めていた会社に退職願い出したが、強烈な慰留にあい9月1日までかかってしまった。

買収は6月に終えていたので、その時点でH川を先発隊で送り込み、10月ごろ経理のH田を入れた。当時のS研究所はM酢からの派遣技術者とM化学の退職者で構成されていたが、仕事も半日程度しかなく、昼からは卓球台を出して遊んでいた。そんなところにド素人の自分が飛び込んだものだから、経理責任者が辞表だし、取締役総務部長は10時ごろ出社して3時には居ない、有様であった。私は実家が青果業であったが、恥かしながら当時はレタスとキャベツの見分けすらできないので、必死になり現場に毎日入り作業した。と同時に当時の納品先が学校給食オンリーで総卸をT平商事に牛耳られ、N城食品、N良食品と三重層で300円/kgが末端では500円を超えてしまい、累損が800万円となるのが危機状況であることを知る。これを打開するため各社を宝塚に集め、8時間に渉り、各社に直売することを認めさせ、T平商事には300万円のリベートを3年間払うことで決着した。これで売価が400円近くなり、その翌年から黒字化できた。
それからは営業に精を出したことから、学校給食も1975年10月頃には月間100トン近く(岡山、高松、兵庫県、大阪、京都、滋賀、岐阜、愛知県等)までとなった。毎日のように徹夜作業が続いたが、学校給食は生徒1人当たり年間食x180食で金曜日、夏休み、春休み、冬休みなどがあるため、学校給食だけでは経営安定が計れないと考える。しかし、1975年には3000万円の経常利益を出し、M酢の買収金を含め全て債務を一掃できた。

*1ここで付け加えことは1973年に起こった第一次石油危機である。1バーレル2$が12$に跳ね上がり、トイレットペーパーがなくなるとの噂で買い占め騒動がおきる。冬場の野菜もトンネルやハウスのビニールが無くなり、ハウス農業ができなくなる。このままでは我社もダメになると危機感をもった私は、当時返還されたばかりの沖縄へ飛び沖縄県農政流通室長H田氏に会い沖縄でレタス栽培ができないかと打診し、紹介された豊城農協で契約栽培をはじめることができた。同じ頃、アメリカのレタス王であるMファーム当主が当社を訪ねてきて、「これからは、このカット野菜のビジネスはアメリカでも台頭しており必ず成長する、できれば直ぐにアメリカへきて見てみなさい。」とのアドバイスを受け、1973年3月に急遽訪米して、Mファーム他を見学させていただいた。当時Mファーム(サンタマリア)は7000エーカーの畑をもちレタス、ブロッコリーを生産しており、Mさんからこれからはブロッコリーが食卓に上ると聞いたが、日本ではブロッコリーを知る人が殆どいなくて聞き流してしまった。

一方、学校給食に続く第2弾を早急に開発しなくてはならない。そのころスーパーが胎動しはじめており特にスーパーDの伸張は目を見張るようであり、スーパーDを訪ねアメリカの近況を伝え是非スーパーDでカット野菜を売って欲しいと営業した。スーパーDが早速採用してくれたお陰で金曜、土曜の作業ができ会社が軌道に乗り始め、他のスーパーも採用しはじめて超忙しい毎日となった。
そのころ私の友人であるI田H信*2が、Y野S巳君を連れてきた。Y野君は大阪堺の出身だが神奈川県藤沢で剥き玉の仕事をしていた。資金的には困っていたが、精力元気いっぱいで、毎週日曜の朝に藤沢から伊丹までカローラを運転して訪ねてきて、二人で淡路の玉葱屋であるT永商事と商談を繰り返した。淡路の玉葱屋とは商売になったが、儲かったつもりが集金にいくと値切るので結果は儲からない。彼らの支払いが遅く、資金が寝るという弊害が残った。しかし、今となってはとてもいい勉強になったと思っている。Y野君と知り合ったことで、農産物の貿易を教えてもらったし、オーストラリア、ニュージーランドを訪ねたのもその頃である。そこでやっと、貿易会社を創ることになった。
会社の歴史(2)につづく…

*1:1974年CAサンタマリアMファームにて

*2:当時F三商会役員