会社の歴史(2)

会社の歴史(1)のつづき…

1975年(昭和50年8月1日)、MVM商事の誕生である。当時社員はT井君だけで事務所はS研究所に同居していた。その後S水、K脇をいれニュージーランド、オーストラリアのオニオンから始めた。時世は沖縄返還の際の佐藤×ニクソン会談で、農産物の自由化が密約されており、日本高度経済成長で農村から大都会への労働人口の加速に伴い農村人口が急激に減速し、貿易で稼いだ金を地方の公共事業に投資した。唯票田しか考えない農政無策が、まず果実がバナナ、オレンジの自由化で当時栽培が始まったばかりのフロリダのグレープフルーツが解禁され、利権に守られていた。N本貿易、F井商店、K洋行に変わる新興勢力が台頭し、我社もその恩恵にあずかった。たしか田中内閣の時、竹下大藏大臣が蔵相サミットで為替を自由化し円高を容認したことで農産物がドドットと入るようなった。

1978年アメリさくらんぼ、解禁になるとの報を聞いたのはK原君*1からである。Y野、K原、I田でトリオを取り組み、早速、同志社の先輩である土井たか子さんに農林省を紹介してもらうことになった。紹介されたのが、当時日米農難物交渉の当事者である小島審議官*2で、直ぐにアメリカ大使館農務担当者 K宮さんを紹介してくれた。しかし、アメリカ大使館へ訪ねたが、すでに200社以上申し込みあり、M菱商事、M井物産、I藤忠、M紅、Z農、N園連ほか10社程度内定しており、いまさら無理だと断られる。農産物はすでに自由化されており、誰が買ってもよいのではないと抗弁し、ワシントン州ヤキマで行われる日米のさくらんぼ会議でわれわれも紹介するよう求め、Y野、I田が強引に現地に乗り込んだ。会場でアメリカ大使館の農務官であっるM宮植防課長とK宮さんから日本からどうしてもさくらんぼ買いたいバイヤーいると簡単な紹介しか受けなかったが、名刺を交わし、翌日から一軒一軒ドアーを叩いてまわった。現地をまわり、誰がこの輸出権をもつているか等を探っているとSEAから日本行きの直行便NWしかなく目下労働スト中*3で運ぶ手段がないことが判り、日本に帰国するや、再度土井たか子さんに頼みこんで、当時運輸大臣だった田村元さんとランチをとりながら、日航社長へ電話をしてもらった。「飛行機をチャーターしてください。」と頼み込んで、快託を得ると1978:7:3ETDの727SEA−NRT約900万円を振り込み、その足でSEAへ引き返した。それを武器に再度輸出権をもとパッカー、グロアーを精力的廻った。当時はどう運ぶかをわからないまま割り当てていたので、彼らもNWストライキの影響を十分理解せず、ことの重要性が間近になって慌てはじめて、我々にも売ることも考え始めたようだった。
やっと、2〜3のグロアー、パッカー、輸出権者が興味を持ち始めた。なんとか3軒が承知してくれ、第1便はウエナッチ、ヤキマ*4から1240ケースをSFOに1978年7月3日の解禁日にNRTにつけた。私自身も成田で待機して植物防疫検査に合格するやいなや、K原の乗用車に積み込めるだけ詰め込み自分で運転して銀座の松屋に向けて走ったTVカメラが待ち受ける中、降ろすやいなや20分足らずで完売した。コスト10,000円で売価20,000円だというのに、池袋西武デパート等で瞬く間に売りつくし1,000万円近い利益を一晩で稼いだ*5。その夜は六本木でドンチャン騒ぎをして豪遊したのだった。
この成功はMVMの伸張に不可欠であり、大きな自信と事業拡大の起爆剤となった。アメリカンチエリーを成功させたことで航空関係者と親しくなりNWのY田さんと知り合い、LAのホールセイラーO青果で働いているF原君*6とも出会った。F原君はLA留学中にメキシカンの女性と結婚して、横浜の両親とは勘当状態にあったので、日本との青果の商売をすることで、日本との往来できるよう熱望しており、情熱とアイディアを持っていた。そこで、メキシコで義理兄弟に日本のカボチャを栽培してもらう決心をし、タキイ種苗の種をメキシコのクレアカンで2〜3HA分を作付けた。トマトの裏作の土地であったが1コンテナー分ぐらい出来上がった。それを日本に持ち込んだところ、美味しいと評判を呼び、翌年には一気に20HAに拡大した。どのスーパーにはなしても乗り気で原価倍ぐらいで売れF原君も専業させることでO本社(ノガレス)に入社。それが1979年秋である。
その後、1985年(昭和50年)春に私は心臓の手術を受けた。
これ以降のお話は、またの機会に。

↓すっかり元気になって、1992年カリフォルニア、全米オープンが開催されるペブルビーチリゾートでゴルフ。

*1:当時力王=地下足袋

*2:故人

*3:180日およんだ

*4:weanachee,yakima

*5:ああ、あの頃は楽しかった。

*6:現O社副社長