古希の心境
平成18年5月25日で70歳を無事迎えることができた。人生50年時代から思えば正に古希である。
敗戦の年は9歳でアメリカ軍の空襲を浴び、神戸の下町を逃げまわり防空壕に避難する経験や戦後の食糧難で青洟をたらし、かぼちゃやジャガイモで飢えをしのいだ子供時代も風化してきて、戦争の非惨さを殆どの日本人は忘れている。大学時代著名な学者が「君たちは21世紀まで生きすばらしい日本を見えるだろう。」といわれ「ホンマかいな?」と思考したことを憶えていているが、当時から比較すると「すばらしい夢のような日本だ!」と私は思う。
64歳で2000年をむかえたが、当時は正直その年まで生きられるとは思っていなかった。49歳(1985年4月17日)の時に心臓の手術をして身障者になり、あと20年程度生きられると執刀医からいわれ、昨年の4月にやっとその呪縛からやっと逃れることができた。
65歳の誕生に息子に社長職を譲り、それからは「あるがままに生きる。」「日常最上。」を自分の人生標語にしてきた。
「あるがままに生きる。」はときどき同世代人から「そんな気まま生き方我々年金生活者にはできない。」とひがみや中傷、批判をうけるが、いま自分の置かれている現況すなわち経験、知識、人間関係、体力を受容して素直に生きようとする心がけである。「日常最上。」は毎日、毎日を大切に生きる。「毎日がSpecial!」時が過ぎるのでなく、自分がとどまり得たのでないかと感じている。しかし、お陰でやっと古希を迎えられたことを感謝したい。
67歳からはじめた農業も丹波の地で根づきはじめ、若い生産者も育ってきた。1.7町歩の畑も近く4町歩に拡大でき、井戸も掘り、地下120米の清水を取水し、撒き、自家堆肥も有機完熟できるようになった。どんなビジネスでも、この年齢になると完成をみることはないかもしれない。未完成でもよい。自分の間尺に合えば、他人に大きな迷惑をかけなければ何とか許してもらえる範囲と自分勝手に解釈している。
大阪の友人(高校時代)が、NPO法人生き甲斐ネットワーク(余生整理と死後の問題)を立ち上げ、お誘いを受けた。しばらくはこの健康体が続けば、まだ生きることへの執念を燃やしたく、参加しないでおこうと思う。生臭く生きる。できれば読書、囲碁、旅行、ゴルフ等なんでもやれる間はやりたい。しかしそろそろ整理も始めようともおもう。遺書の書き換え、タンスに溜め込んだ衣服、子供ころからの何冊もの写真集、海が見える六甲山中腹の住居から町なかのマンションへ希望は下駄履きで、うどんや居酒屋にいけるところへの転居。足腰弱われればいまの場所では生活できなくなるワイフはぼやく。さびしいが老いとはそんなもんだろう。
次は73歳辺りが岐路となると感じながら、現在を楽しみたく、古希を迎えた感想(感傷)です。