小学校の想い出

小学校に入学したのは第二次世界戦争のさなか昭和18年4月である。当時住んでいた場所が兵庫区の船大工町で現在の神戸中央卸売市場の北側の50mにあり、私の生家でもある。入学したのは神戸市立道場小学校である。1〜2年生の想い出は記憶にはほとんどない。ただ隣席の女子生徒の給食のパンがなくなり、嫌疑を賭けられたことがあって悔しい思いをしたことを覚えている。それぐらいで、まもなく米軍の急襲警報が頻繁しくるようになり、おちおち学校にも行けなくなってしまった。昭和20年3月16日夜〜17日にかけて、神戸に大空襲があり神戸中央市場に逃げ込んだ。そのとき空から無数の少射爆弾が落ちてきて、死傷者が多量にでて、市場に避難者、負傷者がなだれ込んできた。その時に乳母車に乗せられ、すでに死んでいる母親の乳房にしゃぶりながら泣き叫ぶ乳児を見た印像は、いまだに離れない。実家も類焼にあい、17日明け方も燃えさかり、消えるのをただ呆然と見ていた。その後、一時的に兵庫区吉田町の親戚に避難した。その途中でグラマン機米軍のパイロットのお遊び気分で、低空飛行から乱射されたことがある。幸い、溝に這いつくばって避難して逃れた。その後、5月頃まで父親が持っていた借家(長田区前原町)に移動。しかしながら、さらに空襲が激しくなるので鈴蘭台に家(30坪ぐらい)買い、石田家だけでなくすでに嫁いでいた二人の姉家族総計15名ばかりが引越して、避難生活をおくった。
昭和24年3月(1949年)神戸市立小部小校を卒業して62年の歳月が過ぎた。
鈴蘭台と云うと、当時はモダンな風情で、神戸の有馬街道沿いにある小さい盆地で再度山の北側に位置する。われわれが住んで居た頃は駅前の小さい広場に大きな松が植ってありほんの小さいエリヤだったが、阪神間の金持ちが避暑地にしていたりしてそれなりに風情があったものだ。私は昭和20年3月16日神戸大空襲で自宅を焼かれ着の身着のまま逃げ出し5月に転校し3年生で小部小学校入れてもらった。入学するにも当時の小部小学校は米軍の大空襲で逃げ出した都会の人々が裏山に逃げ込んだところで急に生徒が増え定員オーバーで人伝手に校長に頼み込み無理やり入れて貰った。鈴蘭台は農村の子と我々が混在しており都会の流れ者と地元の小百姓の子供が縄張り争いをしており、先生方も民主主義とはなにか教育で何を教えるか戸惑い我々も唯学校に行き遊んでばかりで、卒業したような小学校生活、時は悠々と流れており放課後自宅近くの餓鬼集めて缶蹴り日没まで遊び呆けた。思い返すと腹が減って貧しい時代だがなんとはなく未来は輝いていたようだ。アメリカの進駐軍が1番に持ちこんだのは野球だ。4年生頃なると野球を始めたがバットやグローブもなく柔らかいテニスボールを使用してU田君の芋畑で近所の餓鬼を集めて放課後から日没まで手打ち野球に夢中だった。5年生頃になると野球道具も少しずつそろい始め空き地を見つけては本格的野球を覚えたものだ。学校も衛生状態が悪く蚤や虱の駆除にD・D・Tを直接、体に噴射され栄養失調の身体に、いまでは世界保健機構(W・H・O)が猛毒に指定されている殺虫剤を遠慮会釈無くぶつ掛けられたものだ。
我々は学年全体70名(卒業時89名)ほどの小さい人数クラス2組。4年生にクラス編成があり、そのままのクラスが卒業までもちこされた。小学校時代の自分は未だ未だ小柄で近眼も進み始めており最前列に座っていたように記憶している。F橋先生(2008年故人)について殆ど記憶にないが、このあいだ久しぶり写真をみて想い起こした。K本先生はスポーツマンタイプで、色浅黒く少し唇をゆがめたファイトある教師であったが、個人的にはあまり可愛がってもらった記憶はない。毎日登校するのが、楽しくってしかた無かった。T辺先生(2005年故人)は音楽担当で卒業後も往来があり、いろいろな相談に乗ってもらった。先生が室内小学校勤務時代、私が同志社大学に在学中だった時に頼まれて神戸市会議員選挙のアルバイトで選挙カーに乗ったりもした。
クラス仲間の中で一番の仲良しだったのはKK君で、彼は当時から体格も頭もずば抜けており、クラスのリーダーだった。彼とはその後、まさに68年の付き合いで、彼が松下電産時代の海外勤務先だったメキシコ、バルセロナ、イタリアと訪ね、御世話になっている。
MK君は満州からの帰国転校組で年令が1歳上の彼とは中学、高校も一緒だったから彼の思い出は小学生に限らず混在している。年上だったこともあり、性の目覚めも早く彼には性教育を随分教わった。(苦笑)
KH君(2005年故人)とも随分仲が良かった。彼の親父が植物園の園長をしていたから、彼のところよく押しかけたものだ。MK君やTK君(竹川学級)ともよくいったものだ。この関係は中学まで続いた。
女子では、THさん(70歳で他界)は確か東京からの凱旋組で、何処となく言葉も鼻声だが関東弁で、服装も垢抜けしていて、頭もよくてチャーミングだった。私の淡い「初恋の人」である。
TTさん(2007年故人)は卒業後、東京の自由学園へ移っていってしまったのでとラブレターを送ったりした。甘い、ほほえましい想い出である。彼女は当時ブルジュワの娘さんで、お母さんがしばしば学校に見えられていた。彼女はいつも仏さんのようにほほ笑んでいてとても印象的だった。私の席の前がTTさんで、心優しく、怒った顔を見せたことが無い。本当に良家のお嬢さまで1才下の妹ATさんも活発な人で、最近まで岡本界隈でおみかけして言葉を交わしたりした。
IKさんは家が近所だったのでよくおぼえている彼女は弟、妹がおり髪の毛を長くのばし毛深い肌で眼がパチリした子で勉強もよくできた。
その他IT君(同志社大学でも同級生すでに死亡)MY君(三田学園高校卒業ご兵庫相互銀行勤務後音信不通)ら印象が深い。その他卒業写真を眺めているとその他諸君諸子が想い起こされてこの60年の歳月の長さ感じざるを得ない。10/17に皆さんにお会いすればどんな言葉が飛び出すやら期待と不安が維入り混じる。私なりの63年の人生振れ返れば久保田君が呼びかけた「貧困・耐乏期」「高度成長期」「バブル崩壊期」「平成の複合大不況」「ラビリンス」のすべてを実体験しいまだ現役を続けているが小学校時代の夢はすべてが適ったと思う。「わが人生に悔いはない。」と現時点は確信できるが20世紀も一年余21世紀を迎えた今これからの人生が健康でおだやかに終えることができることを祈念するのみである。