山田中学時代の想い出

当時(昭和24年4月〜27年3月頃)は、現在の鈴蘭台の駅前徒歩3分ぐらいの住んでいた。入学したのは山田中学校であったが、山田中学校は鈴蘭台高校に間借りしていて、3年生の2学期まで鈴蘭台高校に通学していた。小部小学校卒と藍那小学校卒、約100名位在学していたので学年は2組しかなく、本校も山田小学校、谷上小学校卒業生で50名足らずで1組しかなく、ほとんど交流がなかった。どんな勉強したか、もうほとんど思い出せない。教師も代用教師が多かった。そういえば、神戸大学第2部在籍していたままの英語教師N向先生がいて、N向先生が当直の夜は囲碁を教えてもらいに、しばしば泊りがけで学校へ行き、囲碁大会をした。スポーツといえば野球、野球、野球の毎日で野球部を作りK納君とお互い左右で投げあい、対外試合はほとんど同エリアの有馬中学、押部谷中学、そのなかでは優位を保っていたと思う。監督はS先生で、確かアイヌ系の国語先生だった。私には特に厳しくよく怒られた覚えがある。S先生は成績は5をくれたが、通知表の添付には「成績は良いが授業態度が悪い」と書いた。その理由は理解していた。
当時の野球部は軟式ボールを使っていたが、放課後に私は別にチームを創り準公式ボールで練習し神戸市内の子供野球にこっそり試合に出ていたからである。バレバレであったから先生のいうこと聞かない反抗する生徒と決め付けられた。U町先生(社会)、S谷先生(数学)等には可愛がられて、あまり勉強しなかったがいつもクラスではトップ3ぐらいにいた。
3年生になった頃、山田本校の建設に約10KMを歩いて箕谷まで行き、互運びをさせられた。そして3学期になって念願の本校へ通学することになった。ピカピカの新校舎で、もちろん靴脱がされ、廊下磨きをさせられた。しかし従来の本校在籍者が威張り、特に部落の子が無法状態で先生も手出しできず、土足のまま教室へ上がって、平気で我がもの顔にしていたので、その1人のM君をつまみ出したことがある。
中学最後の日、卒業式もおわり帰途しようとしていたら、M君ら4〜5名が校門の外で棒をもって待ち構えていることがわかり、しばらく待ったが1時間ぐらいして正面突破すべく校門を出たら「石田!!お前、よう俺に恥じをかかせたと棍棒で殴りかかってきた。当時の私は中学生時代野球部で148cmが178cmまで身長が伸び、クラスで1番背丈なっていたので、一発二発ぐらいでは堪えないとなぁと思いながら、学校から箕谷駅にむかって走って逃げた。彼らの仲間の一人だったU君が、自転車で追っかけてきたので「よしお前ひとりなら一騎打ちしよう!」と言ったら、U君は逃げ帰ってしまった。(笑)
50年ぶりに、山田中学同窓会でM君にあったら「あの時すまなかった。」と謝られた。思い出に残る友人は小学時代からK納君、K原君(故人)、T郷君、K田君両人は小学校の先生になって、いまでもボランティア等でがんばっているそうだ。そうだったT田君(故人)も忘れられない一人だ。野球仲間で野球、野球で毎日明け暮れた、のち成人してからはマージャン仲間で、F徳相互銀行に勤務のち三宮で「TON TON」という飲み屋を開いていたが、この10年ぐらいはお互い音信不通になっていて、2007年に逝去したことを知った。

そのころの日本、世界
昭和24年(1949)下山事件松川事件 湯川秀樹、日本人初のノーベル賞受賞
昭和25年(1950) 朝鮮戦争勃発
昭和26年(1951)日米安保条約
昭和27年(1952)サンフランシスコ講和条約