兵庫高校時代

昭和27年(1952〜1955)から30年まで15歳〜18歳の時代。昭和27年より受験制度が変わり中学区制敷かれ、われわれから兵庫区内であればどこでも受けられるように成った、したがって成績では順番に良い学校に行ける今の制度の始まりである。
山田中学の卒業生は約180名前後であった3年生後期は受験テストがあり私の成績は全体のなかで7〜14番辺り前後していた、その成績だと兵庫高校を受験資格あり当然受けることになったが、父親が商業科に進みゆくゆくは商売人になるよう厳しくいわれ、泣き泣き兵庫高校の商業科を受けた、兵庫高校から文書で普通科に転科する成績だから薦められたが、当時父親の意向が絶対で転科できなかった。入学後すぐに軟式野球部にはいり1年生後半よりエースになり兵庫県下ベスト4まで入った、その歳でスポーツは柔道、水泳なんでもごだれであった。2年生になったときにスポーツ選手ばかり集められて身体検査があり、そこで心臓(心房中核欠損症)に異常ありと校医から宣告されすべて体操は禁止で驚天動地の大ショックであった。15、16の年齢で将来の夢が立たれたようなものである。生活も急変して勉学もやる気をなくし授業を抜け出しては新開地の映画館二本立て映画をみては帰宅する毎日になってしまった。丁度そのころ父親が脳溢血でたおれた、家内の実権は母親の采配になり2年生後半母から大学進学を認められた、だがすでに準備不足である。普通科へ授業をうけに行ったが追いつくことはできない。軽い結核も発病してしまい、浪人して当時花隈にあったコロンビア予備校にいきやっと受験勉強らしい勉強することになった。私の人生で兵庫高校時代は一番落ち込んだ時代だったのではなかろうか、だから兵庫高校時代はいま振り返っても暗い想い出しか残らない。友人でいまも親しくしている同じクラスのY口俊夫君、H君、O村貢君らいる。H、O村両君は私の勤務していたT電通に紹介し、定年まで勤めた。
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O野義春君について少し触れたい、O野君は兵庫高校卒業後進学せず、I藤ハムに勤めた。15年後独立しダイエーの明石店で総菜屋をはじめ38歳ごろに三田西インターの物流団地でダイエー納品の焼き鳥の工場を設立し拡張していた。36歳で独立した私のよき相談相手で、すぐに仲良くなり家族ぐるみで付き合いをした。O野夫妻とはハワイ、カナダ香港等でかけゴルフをともに甲南ライオンズクラブにともに入会して毎日ごとく連絡しあい、三宮には連夜のごとく繰り出し遊んだ。平成2年16日ゴルフ、マージャンした夜、三宮の焼き鳥屋で心筋梗塞を起こし突然死んでしまった。53歳の若さでの死は返す、返すも残念である。その後、長男R君の仲人を勤めさせていただいた。
高校時代は、前に述べたとおり商業科に籍を置いたものだから3年間同じ先生担任になりその先生H谷川洽氏である。温厚でいつもニコニコされ、ごんたくれで落ちこぼれクラスをよく面倒をみられた昨年(平成20年秋)に逝去された。確か90歳近かったと思う。
何とか勉強もせず兵庫高校を卒業して1年間花隈の予備校に通った。1年間で合格するには3科目で受験できる私学しかない、とりあえず早稲田大学を第一希望、すべり止めに同志社を選んだ。早稲田の出題はアチュブメント方式で同志社は出題に回答と意見を書くまったく異なる方式で先に早稲田、その翌日同志社の受験日であり、早稲田にはかなり手ごたえをかんじていた。帰途に京都に泊まり同志社を受けた、同志社英語の長文が3問でこれが合格の可否であり懸命に訳していたが時間切れで全部に回答を書けなかった。早稲田は「桜散る」電報。同志社掲示板まで見に行ったら合格、それも英語が優であることが理由とのち判明!いまだによくわからない。

ライムライト [DVD]

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昭和27年(1952)チャプリン「ライムライト」、へミングウエイ「老人と海」、
壺井栄二十四の瞳
昭和28年(1953)朝鮮戦争終結NHKがTV放送開始。「プレイボーイ」創刊。「ローマの休日
昭和29年(1954)三島由紀夫潮騒」、サガン悲しみよこんにちは」、黒澤明「7人の侍」。
昭和30年(1955) 日本社会党統一大会10、自由民主党結成(保守合同.)11

潮騒 (新潮文庫)

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*1:1990年カナダバンクーバー島にて