同志社時代(3)

最後に、土井たか子さんについて触れなければなるまい。土井さんと知り合ったのは確か彼女が昭和33年頃に同志社大学法学部憲法の講師になり、2年後輩たちを担当されたことで、後輩から紹介を受けた。私の結核が再発して、就職を断念し昭和35年(1960)に一留して神戸に戻り、友人たちと読書会を神戸市内諏訪山会館ではじめたときにも、土井さんは来られていたと思う。当時彼女が同志社法学部の講師になりたてではなかったか、笠原さん(のち京都精華学院大学初代学長)、故岸本通夫先生(大阪大学文学部教授で日本史の教科書の巻頭文を書いた)、中島通子さん(アメリカで著名な黒人解放運動家ミスターXを追跡主題やカストロ演説を録音して後に神奈川県某大学教授を勤めいまは石の研究家とか)が加わり毎月一回は大盛況になった。
土井さんはその後神戸市教育委員に任命され、その関係者から日印文化協会(加納町)で別の読書会にも呼ばれ、そこには梅棹禎夫さんや京大人類学のメンバーを加わっており、読書「DISCAVER Of INDEA」(岩波尚書、著者ネール元インド首相)を読むことで随分知識、思想、姿勢を学んだ。
土井さんはその後、昭和34年衆議院員総選挙に兵庫2区(西宮、尼崎、伊丹、宝塚、川西)から社会党から立候補し、私も西宮での決起集会で応援演説をさせられ、のちには伊丹地区後援会長をも務めた。議員時代には随分お世話になりました。

The Discovery of India

The Discovery of India

昭和50年(1985)4月尼崎にある関西労災病院で心臓の手術した際にも、2度もお見舞い来てくださり、私も伊丹地区ではいつもトップ当選をさせるべく尽力した。その社会党自民党が合同で政権をとり村山内閣が誕生し、土井さんも衆議院議長となり、その後民主党ができ、土井さんたちは下野して社民党を作り党首またもや野党として活躍したく後援会総会を開いた。私は衆議院議長自民党社会党から押され立法府の最高の座についた人が在野して自民党を攻撃する社民党党首に付くべきではない。引退すべきと一人反対した。そして今後は応援できない旨その会場で発言した。社民党はその後北朝鮮による拉致対応、辻元清美議員秘書歳費ごまかし事件が発覚して低迷しているのはご存知のとおりである。

同志社学生時代が私の人間形成に大きく深く影響を与えたこと間違いない。
昭和31年(1956)日ソ共同宣言、国際連合加盟
昭和34年(1959)北朝鮮帰国事業
昭和35年(1960)安保騒動