同志社時代(2)

大学の3回生になると法学部自治会から同志社学生健康保険の第3代委員長に選出された。私も軽い結核しかかったこともあったが、当時の学生生活は社会保険制度も完備できなくて、十分な治療が受けられず退学する学生も多かった。そこで治療費50%を保障する学生健康保険が同志社で生まれた。これは画期的なことだと思い、是非、全国的に広めることが急務だと勢い込み、京大の自治会に行って説得(オルグ)し賛同を得たり、京都歯科医師会にも適用を申請して了解を貰ったりした。次は関東だと勢い込み夜行列車(新幹線は未通)で東京へ、早稲田、慶応、東大、日大、立教、等を勢力的まわり次々賛同を得た。一方で全国学生法学ゼミナールにも2回生から参加した。確か2回生のときは早稲田で、3回生は九大で開催され、九大では議長の大役を無事こなした。そのように他校との交流は自分の人間形成に大きく影響をあたえたには違いないと思っている。
同志社学生時代の友人たちについて語ろう。まず同じように自治会の委員になったS野君である。彼は鹿ケ谷に下宿しており、私のところから近かった。彼は富山県高岡市の出身で自治会役員をしながらマージャン狂で、何事にもあまり熱中しない、少しデカダン気味で、卒業後も司法試験を目指していたが、いつの間にか京都進進堂(京都大手のパン屋であるが今は廃業)に勤めだし、のち「グルメ杵屋」の役員となり70歳ちかくまで勤めぬき、現在は悠々自適の生活を楽しんでいる。
S野君を含むよく遊んだ仲間3人組に、I井君がいる。私は2回生になり下宿先を岡崎東天王町に移した。そこは大きな屋敷で600坪くらいあり、奥の離れが学生の下宿になっていて6畳の部屋を3000円で借りられた。当時は大学卒の初任給が7〜9000円であったと推測されるので、かなり破額値であったが親父が残してくれた借家10軒余の家賃月2万円ばかりを大学在中は自由に使ってよい母親から認めてもらった結果である。I井君は岡崎の下宿か徒歩5分で聖護院のスイス人の宣教師宅に下宿していた。I井君はとりあえず勉強、勉強、勉強の虫で、いつ訪ねても勉強をしていた。それでも誘えば飲みには付き合いよく祇園まで3人で呑みにいった。帰途他人の邸宅のベルを鳴らし逃げたり、今となっては馬鹿げたことばかりをしたものであるが、I井君は同志社総代となり日銀、東芝を受け両社とも合格して東芝本社勤務。その1年後、同志社大学院に戻り、修了後恩師S本先生に誘われ名古屋学院大設立時勤めて、遂には大学よりスイス、ドイツへ留学し約3年後帰国し同大学に勤務したのち、国立三重大学法学部長の経歴を経て愛知学院大学教授70歳勤め上げ、なお現在は岐阜旭大学大学院、大学の教授を務めている。彼が欧州へ留学をするときに、私はすでに結婚して妻が身ごもっており、生まれてくる子が男子なら俺の名前をもらってくれといわれ長男を希世士と名づけた。生涯の無二親友である。

自由への道〈1〉 (岩波文庫)

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同志社時代は自治会役員や健保委員長をしていたことで、幅広くキャンパスを我がもの顔に闊歩していた。おかげでたくさんの先輩、友人たちと親密に交流できた。いちいち取り上げられないが、学年は1年上だが年齢は4歳ぐらい上だったK沢恒彦氏(故人)を挙げたい。彼は高校時代から学生運動に携わり荒神橋事件で逮捕暦もあると言われ、特にわれわれの間では彼の思想哲学に一目をおき、影響を受けていた。当時、鶴見俊輔氏達が立ち上げた雑誌「思想の科学」に、上坂冬子トヨタ勤務時代に投稿していた)たち脱共産主義で、自由主義ながら弱者擁護の理論を展開する、サルトルカミュの影響を受けていた思想が台頭し、石原慎太郎、開口腱、大江健三郎浅利慶太吉田直哉等が登場し始めていた時代である。いろいろな人脈形成でいろいろな読書を読んだ。サルトルの「自由へ道」、マルクス共産党宣言」、毛沢東「矛盾論」はいまでも何らかの影響を残している。そんな風に大学生活をエンジョイしていたが、大学の授業はだんだんサボりはじめていた。当時同志社大学法学部には二人の名物教授、田畑忍先生(憲法学)と岡本清一先生(政治学)が在籍されていた。当時は他大学では瀧川幸辰(京大刑法)、末川博一(立命大総長)、恒藤恭(大阪市大学長)、と怱々たる法学博士が生存していた。文学では桑原武夫先生(京大)も!これらの先生方を健保組合でお呼びして明徳館で講演会を開催したりしたのが懐かしい。
私は恒藤恭先生のご子息の武二先生の労働法をゼミに入った。卒業時に結核の再発で留年を余儀なくされたので卒論を出さず卒業後も恒藤先生から石田君はなぜださなかったの?いわれた、それには訳があった。労働法で「労働契約の自由と制限」をテーマに書いていたが、後輩岡本武夫君が私の病気を知りわたしから聞き出し代筆してくれていたので出せばよかったのをなんとなく気が進まなかったのである。しかし田畑先生の憲法は85点岡本先生政治学90点をもらい、同学年ではおそらくトップクラスであったはず。恒藤先生労働法は残念ながら65点であった。
マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

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恒藤ゼミ仲間にはT田雄一郎君がいる。彼はS野君と同じ富山の高岡の出身で1年後輩であるが、同志社では同年生である。彼は親が薬品会社を経営していたので学生生活は十分経済的に満喫していた。同じゼミであったがひとかどの理論(屁理屈野郎)であり、激論交わすことしばしばで現在は製薬会社を無事勤め上げ、いまもゴルフ仲間であり国内、海外のともに楽しんでいる。
その他友人で印象に残るのはS田陽一君(福岡相互銀行勤務)Y田宣冶、H谷川昌三君。女子では旧姓ではA.Yさん(長野県上田の出身で小柄な美系で当時「チボー家の人々」を読んでおり、学生運動家の間では憧れの人だった。)、T.Mさん(京都同志社中、高校の出身で井上流の町かたさんでは最高の使い手、能楽も舞い典型的な京都の女性いつもにこにこ顔で心を癒しくれる。)、A.Nさん(故人)(眼のきらきらした賢くて品の良い女性で、授業には皆勤でよく勉強ができ彼女からノートを借り、後輩の女性に移させ単位習得できた。卒業後、早く病院経営の医者の男性と結婚したが、60歳の若さで逝去)、後輩ではO本武夫、K原大八、U城久美子(K原夫人となる)、W田穂波(卒業後函館の名家さんに嫁ぐ)さんたちです。