同志社時代(1)

一浪した昭和30年夏、父の常治が死んだ。その頃から、石田の実家の商売だった神戸中央市場中卸業が軌道に乗り始めていたこともあり、経済的に心配しないようになった。幸い同志社大学法学部に無事入学でき、鈴蘭台の実家から通うには3時間かかるため京都で下宿生活を送れたことが、いままでの暗い高校生活から脱皮する大きな機会となり、バラ色の大学時代を謳歌することになった。その舞台を作ってくれたのが同志社である。なにもわからず初めて登校した印象は高校とは別世界であり、燃えるような新緑の御所に隣接したレンガつくり校舎、カラフルな女子学生の服装、張り紙の過激な言語、なにもかもいままでにない未体験ゾーンでワクワクのスタートだった。
初めて下宿したのが銀閣寺の近くの3畳一間の部屋である。同じ同居人で東京から同志社大学3回生のE藤さん、四国の宇和島出身の立命館大学4回生U宮さん、計3名である。銀閣寺の近くに学生相手に食堂があり1食100円程度(確か素うどん20〜30円だった。)で食べることができた。銀閣寺から同志社前まで市電で10分、いよいよ登校だ、入学式でもらった単位のとり方で必修科目と選択科目があり水曜日は11時からチャペルアワーで講演と祈祷がある。スポーツや学術部の勧誘が行われており、同志社法社会学研究会(同法会)籍を置くことになった。もちろん当時はノンポリで法律研究会もあったが、なんとなく法社会学のほうが新鮮味に感じたのは動機にすぎない、それがその後自分の人生に大きく影響するとは夢想だにしなかった。英語は必修科目で入学試験の英語成績順によってクラス別にされていた。自分では英語出題の英訳が3問中2問はできたが、3問目が時間足らずで最後まで書けなかったので、まさかA組1クラス入るとは何かの間違いではないかといまでも思うが、この時に合格者約500名中50名以内には入れるとは驚きであった。
そのようして同志社の学生時代が始まった。毎日通学してはじめは必修科目には出席したが、選択科目は出欠を取らないとがわかりだすと徐々にサボりだし同法会の研究会の部屋に顔をだすようになった。同法会のメンバー当時の法学部の学生運動のメンバーと法学をまじめに勉強しようとするメンバーが混在していた。私自身は先輩たちのなかで、学生運動華やかし頃で社会のいろいろな矛盾を解放すべるには弱者擁護の法理論にだんだんと傾きだし、1回生の後半には自治会の委員に立候補するまでになっていた。その頃は自治会の主たるメンバーが共産党員であることをはじめて知った、彼らから幾度となく誘いを受けたが、どうしても共産党員でなければ学生生活が改善できないとかれらが言う理由が自分でもわからないので断った。しかし砂川闘争に関東まで出かけたりもした。その当時の全学連の副員長N野寺さん(東大生)書記長K島さん(明大生)である。のちに知り合い、いまだに交流がある。