フレッド・イサム・ワダ(Fred Isamu Wada)

やっと梅雨明けましたが、皆様おかわりありませんか?
今朝、産経新聞を読んでおりましたら、第二次世界大戦終了後の水泳界で次々と世界記録を打ち立てて「フジヤマのトビウオ」の異名を取った古橋広之進逝去に伴う添付のような記事が記載されていました。そこで私も、親しくお付き合いいただいたF.ワダ氏のことでワダ氏本人から直接お話を聞いたことを披露したくなりました。
昭和24年ごろのアメリカでの日系日本人は敗戦後の後遺症で「憎き、悪い、日本人(JAP'S)」で肩身が狭い思いで暮らしていたそうです。当時ワダさんはカルフォルニアオークランド(サンフランシスコの対岸)スーパーマケット15軒ばかり経営しておりました。そのカルフォルニアサンタクララプールで全米選手権が開催され、ワダさんの自宅に寝泊りさせた古橋、橋爪、浜口選手たちが世界新を連発したことで、馴染みの散髪屋から「日本人はえらい!!」といわれ、連日全米のマスコミが大々的に報道したことにより、対日本人感が一変したそうです。ワダさんはその後住居をロスアンゼルスに移し、日系リタイアメントハウスをボランティアで経営されており、私は1990年秋頃にワダさんのご自宅に泊めてもらった時に聞いたお話です。
ワダさんは新聞記事などでも取り上げられているように東大南原総長や、清川水連会長から依頼をうけ南米諸国を歴訪し、1964年東京オリンピックの誘致に成功させた方です。高杉良著「祖国へ、熱き心を東京にオリンピックを呼んだ男 」で小説にもなっています。ワダさんはペルーでフジモリ大統領が誕生した直後にカルフォルニア在住の日系人からお祝金を集め何万ドルかを持ち数人でペルーを持参したそうです。当時ペルーは本当にマトモに食べ物もなく貧しさで天野夫人(天野芳太郎夫人、パナマ運川で巨万富を得てペルーリマでアンデスインカ博物館を立てる)から夕食の招待をうけるも市場にすでに食料品なくホテル枠でたべてください。電話で連絡があった。フジモリさんはチリで拘束され現在はペルーの監獄に入っています。フジモリ大統領は当時日本大使館で100名余の日本人の名士(三井物産松下電器等現地社長たち)が集まりパーテイの最中テロリストに襲撃を受け4ヶ月に(1996.7.28〜1997.4.22)監禁され大事件を一人も犠牲者を出さず解決した大恩人である。日本人はその恩をわすれたのか、ペルーやチリから救い出せていない。残念の極みです。
ワダさんの話に戻そう。その日系リタイアメントハウスが耐震強度不足で建て替えすることになり日米で募金活動があり、私も50万円浄財を寄付した。当時竹下総理大臣もワシントンから帰途ロスに立ち寄り100万円寄付している。日米で十分な募金が集まり建て替えられた。私が「何故耐震工事であれば補助金をもらわないですか」と問うたにワダさん「日本からアメリカに渡ってきた日本人(一世)が老い終末棲家をいまさらメキシカンや黒人とともに過ごさせるには忍びない、だから自力でやる。」
ワダさんは戦中には在カルフォルニアの人々とともに強制収用所に入れないようアリゾナ、ユタへ逃げまわったとも言っておられました(日系仲間から卑怯だといわれた。)生まれた男子にEDWIN(江戸勝つ)FUJIKO(富士山)名付けていた。
このようなことを私個人がワダさんから直接きいた話しです。ワダさん93歳で2001年に他界しています。