民主党に物申す。

拉致問題の解決法

金王朝北朝鮮の現体制)を崩壊させる以外ない。このことはだれでもわかっている。イスラエルだとすぐやるだろう。日本、米国、韓国が結集して一騎攻め込み金一族を滅ぼさせる絶好のチャンスだ、ピンポイントで彼らの居住区、原発施設をイッキ叩くことで、難民流失は心配しないでよい。中国は金体制の崩壊が自国の共産党一党体制に伝播をおそれているだけだ。

T.P.P開国問題

我が国の農業は壊滅しない。むしろもろもろの規制排除すれば生産性も高まり輸出可能な新しい「MADE IN JAPAN」ブランドの農産品必ず生まれる。現在の農水省の政策の解体的根本根治が必要である。農業関連の圧力団体にだまされるな!!むだ税金を投入するな、オオカミ少年ならずオオカミ農水族だ。

普天間代替え基地

これも簡単、宮古島に隣接する下地空港(無人島)に移設させればコスト安く、期間もすぐにできる。沖縄県知事普天間の住民解消に比べれば反対出来まい。尖額諸島にも近い、中国の軍事圧力には下地島しかない。間もなく下地、伊良部島から宮古島にかけ橋ができる。宮古島の飲み屋街も潤う、最適地だ。

若者の就職難の解消法

本来大学に入学して就職する資格のない大学を粗製乱造してきたのがあふれているにすぎない、彼ら(不適格者)が就職氷河期を生んでいる。大学3年生から就職活動する暇があればもっと勉学に励め、TPP開国時代に2カ国語ぐらいしゃべれる青年は就職難と無縁だ。徴兵制のない現在、まともに何十万人の若者を遊ばせてそのコストを民主党は計算したことがあるか、森林ボランテアで従事させ「辛抱」「我慢」に耐えた若者を企業は優先雇用せよ。
民主党に見切りをつけ始めている。

「民主主義は最悪の制度だ。いままで試みられて他の制度よりまし、というだけだ」(ウイストン・チャーチル

100年前のチャーチルの呪縛から解放しよう!

民主党に物申す。

前回鳩山前総理のブレを指摘して民主党政権交代の失望を述べてきたが、尖額諸島の中国魚船の海上保安船に体当たりしてくる映像が流失して中国の蛮行があきらになったにも関わらずまともな抗議もせず、ひたすら国内の「公務員の国家の機密の漏えい」にわい曲化したばかりかG20横浜で22分間の短い日中首脳会談で菅総理が湖錦涛中国国家主席会談でメモを読み上げている映像を見て「これが我が国総理大臣か!」絶句した。その隙を見逃さずロシアの大統領が択捉島を訪問され北方4島の返還も絶望的になった。その後柳田法務大臣、仙谷官房長、岡崎国家公安委員長の適格性?ボロボロの醜態を見せつけられ、マニフエスト公約の国家公務員の20%の歳費カット衆参議員の定数、歳費削減も何も出来ない!もはやこれまで!!である。自民党の永きわたる政権で利権政治に飽き飽きした政権交代民主党が更にわが国民をどん底に落とし込んだ。
もはや処方箋はない、名古屋河村市長、大阪府の橋本知事の維新の会、鹿児島の専権市長のような革命的改革以外にない、「民主主義は最悪の制度だ。これまでに試みられて他のいかなる制度よりまし、というだけだ」(ウインストン・チャーチル)が約100年前に語ったよう民主主義万能をかえねばなにも解決できないかも。とりあえず国防と議員.公務員の削減でも最低やってくれ!!悲鳴にも似た叫びだ。

My Early Life: 1874-1904

My Early Life: 1874-1904

民主党に物申す。

どうやら政権交代も失敗ではないか?と、国民は思い始めている。
それは鳩山由紀夫前総理のブレが起因の発端になっているのだが、小沢一郎幹事長を道連れに責任退任したのでなかったか?そして次回の選挙に総理経験者は出てはいけないと言明した。これを撤回するようであれば、もはや政治家の言動を信用して税を納めることすら拒否したくなるだろう。
尖額問題で日本人も少しは平和ボケが吹っ飛んだだろう。しかしどうするのか?

「日本の状況すべてが行き詰まり、息が詰まっている。政治にも経済にも、個人の生き方にも、勢力(精力)が失われたまま、どうにもならない。私はこの生命の流れを反対の方向に向ければ直せると思うのだが、世間は恐らくそれを認めないだろうから、病は重症のままだ。現在の日本人はすべて求心的、内向的なのである。これを外側にむければいいのだ。若者は外国へ行くのを嫌う。戦乱や誘拐や病気など危険が多いから行くのは嫌だ、という。」(曽野綾子さんのお言葉)

大学3年生からリクルートスーツで職を求めて狂奔する異常な現象は、国家の損失が何兆円になるか試算すればよい。TPPに反対する農業従事者にしても、彼らは本当に農業経験があるのか疑わしい?65歳を超える農民が農地を放棄してどんどん廃農する現況を放置したままTPP反対でもあるまい。我が国の農業経営を難しくしている細分化した農地を集約して、とりまとめて大規模化すれば解決できるはずだ。今までのようにJAを通じた補助金交付、肥料、農器具の買いつけをやめればよい、農機具の個人保有を止め、農機具を貸し出す会社に任せればよい、さらに収穫請負会社、人材派遣業を農業にも適用すれば夏は北海道、東北春秋は近郊で冬は九州、沖縄へ派遣できる。
私事だが農業生産法人丹波で経営しているが、先般若い女性の農業希望者を採用するために農地内に水洗トイレを250万円かけて設置した。その認可を農地委員会に諮れなければならない。
日本各地を見て回っているが、元気な経営者はたくさんいる。彼らは決して内向けきではない、徳之島奄美諸島で400名農家を束ね生姜栽培に成功した岡山の経営者、宮崎で150HA以上農地を自社栽培し自社の冷凍野菜加工工場を近代化した経営者、青森の僻地でTVも入らない山奥に住みにんにく栽培、加工、商品(オンリーワン)を自らインターネットで生計立てている若い夫婦の経営者、彼らはJAの支配から脱却してグローバルを目指している。草食化した若者に希望を与えるのが政治家の責務でないか?TPPで諸物価が下がればその分を、社会保障や農業活性化にむけられるのではないか、若者を海外へ出し、農業の経営、農業に限らずITを含むグローバル化経営戦略を学問させれば我が国の在り方を担う専門職が育ち、日本の食糧安保も出来「希望ある日本が見えて来よう!」
時代閉塞を打ち破る責務はいちに民主党にかかっている。

同志社時代(3)

最後に、土井たか子さんについて触れなければなるまい。土井さんと知り合ったのは確か彼女が昭和33年頃に同志社大学法学部憲法の講師になり、2年後輩たちを担当されたことで、後輩から紹介を受けた。私の結核が再発して、就職を断念し昭和35年(1960)に一留して神戸に戻り、友人たちと読書会を神戸市内諏訪山会館ではじめたときにも、土井さんは来られていたと思う。当時彼女が同志社法学部の講師になりたてではなかったか、笠原さん(のち京都精華学院大学初代学長)、故岸本通夫先生(大阪大学文学部教授で日本史の教科書の巻頭文を書いた)、中島通子さん(アメリカで著名な黒人解放運動家ミスターXを追跡主題やカストロ演説を録音して後に神奈川県某大学教授を勤めいまは石の研究家とか)が加わり毎月一回は大盛況になった。
土井さんはその後神戸市教育委員に任命され、その関係者から日印文化協会(加納町)で別の読書会にも呼ばれ、そこには梅棹禎夫さんや京大人類学のメンバーを加わっており、読書「DISCAVER Of INDEA」(岩波尚書、著者ネール元インド首相)を読むことで随分知識、思想、姿勢を学んだ。
土井さんはその後、昭和34年衆議院員総選挙に兵庫2区(西宮、尼崎、伊丹、宝塚、川西)から社会党から立候補し、私も西宮での決起集会で応援演説をさせられ、のちには伊丹地区後援会長をも務めた。議員時代には随分お世話になりました。

The Discovery of India

The Discovery of India

昭和50年(1985)4月尼崎にある関西労災病院で心臓の手術した際にも、2度もお見舞い来てくださり、私も伊丹地区ではいつもトップ当選をさせるべく尽力した。その社会党自民党が合同で政権をとり村山内閣が誕生し、土井さんも衆議院議長となり、その後民主党ができ、土井さんたちは下野して社民党を作り党首またもや野党として活躍したく後援会総会を開いた。私は衆議院議長自民党社会党から押され立法府の最高の座についた人が在野して自民党を攻撃する社民党党首に付くべきではない。引退すべきと一人反対した。そして今後は応援できない旨その会場で発言した。社民党はその後北朝鮮による拉致対応、辻元清美議員秘書歳費ごまかし事件が発覚して低迷しているのはご存知のとおりである。

同志社学生時代が私の人間形成に大きく深く影響を与えたこと間違いない。
昭和31年(1956)日ソ共同宣言、国際連合加盟
昭和34年(1959)北朝鮮帰国事業
昭和35年(1960)安保騒動

同志社時代(2)

大学の3回生になると法学部自治会から同志社学生健康保険の第3代委員長に選出された。私も軽い結核しかかったこともあったが、当時の学生生活は社会保険制度も完備できなくて、十分な治療が受けられず退学する学生も多かった。そこで治療費50%を保障する学生健康保険が同志社で生まれた。これは画期的なことだと思い、是非、全国的に広めることが急務だと勢い込み、京大の自治会に行って説得(オルグ)し賛同を得たり、京都歯科医師会にも適用を申請して了解を貰ったりした。次は関東だと勢い込み夜行列車(新幹線は未通)で東京へ、早稲田、慶応、東大、日大、立教、等を勢力的まわり次々賛同を得た。一方で全国学生法学ゼミナールにも2回生から参加した。確か2回生のときは早稲田で、3回生は九大で開催され、九大では議長の大役を無事こなした。そのように他校との交流は自分の人間形成に大きく影響をあたえたには違いないと思っている。
同志社学生時代の友人たちについて語ろう。まず同じように自治会の委員になったS野君である。彼は鹿ケ谷に下宿しており、私のところから近かった。彼は富山県高岡市の出身で自治会役員をしながらマージャン狂で、何事にもあまり熱中しない、少しデカダン気味で、卒業後も司法試験を目指していたが、いつの間にか京都進進堂(京都大手のパン屋であるが今は廃業)に勤めだし、のち「グルメ杵屋」の役員となり70歳ちかくまで勤めぬき、現在は悠々自適の生活を楽しんでいる。
S野君を含むよく遊んだ仲間3人組に、I井君がいる。私は2回生になり下宿先を岡崎東天王町に移した。そこは大きな屋敷で600坪くらいあり、奥の離れが学生の下宿になっていて6畳の部屋を3000円で借りられた。当時は大学卒の初任給が7〜9000円であったと推測されるので、かなり破額値であったが親父が残してくれた借家10軒余の家賃月2万円ばかりを大学在中は自由に使ってよい母親から認めてもらった結果である。I井君は岡崎の下宿か徒歩5分で聖護院のスイス人の宣教師宅に下宿していた。I井君はとりあえず勉強、勉強、勉強の虫で、いつ訪ねても勉強をしていた。それでも誘えば飲みには付き合いよく祇園まで3人で呑みにいった。帰途他人の邸宅のベルを鳴らし逃げたり、今となっては馬鹿げたことばかりをしたものであるが、I井君は同志社総代となり日銀、東芝を受け両社とも合格して東芝本社勤務。その1年後、同志社大学院に戻り、修了後恩師S本先生に誘われ名古屋学院大設立時勤めて、遂には大学よりスイス、ドイツへ留学し約3年後帰国し同大学に勤務したのち、国立三重大学法学部長の経歴を経て愛知学院大学教授70歳勤め上げ、なお現在は岐阜旭大学大学院、大学の教授を務めている。彼が欧州へ留学をするときに、私はすでに結婚して妻が身ごもっており、生まれてくる子が男子なら俺の名前をもらってくれといわれ長男を希世士と名づけた。生涯の無二親友である。

自由への道〈1〉 (岩波文庫)

自由への道〈1〉 (岩波文庫)

同志社時代は自治会役員や健保委員長をしていたことで、幅広くキャンパスを我がもの顔に闊歩していた。おかげでたくさんの先輩、友人たちと親密に交流できた。いちいち取り上げられないが、学年は1年上だが年齢は4歳ぐらい上だったK沢恒彦氏(故人)を挙げたい。彼は高校時代から学生運動に携わり荒神橋事件で逮捕暦もあると言われ、特にわれわれの間では彼の思想哲学に一目をおき、影響を受けていた。当時、鶴見俊輔氏達が立ち上げた雑誌「思想の科学」に、上坂冬子トヨタ勤務時代に投稿していた)たち脱共産主義で、自由主義ながら弱者擁護の理論を展開する、サルトルカミュの影響を受けていた思想が台頭し、石原慎太郎、開口腱、大江健三郎浅利慶太吉田直哉等が登場し始めていた時代である。いろいろな人脈形成でいろいろな読書を読んだ。サルトルの「自由へ道」、マルクス共産党宣言」、毛沢東「矛盾論」はいまでも何らかの影響を残している。そんな風に大学生活をエンジョイしていたが、大学の授業はだんだんサボりはじめていた。当時同志社大学法学部には二人の名物教授、田畑忍先生(憲法学)と岡本清一先生(政治学)が在籍されていた。当時は他大学では瀧川幸辰(京大刑法)、末川博一(立命大総長)、恒藤恭(大阪市大学長)、と怱々たる法学博士が生存していた。文学では桑原武夫先生(京大)も!これらの先生方を健保組合でお呼びして明徳館で講演会を開催したりしたのが懐かしい。
私は恒藤恭先生のご子息の武二先生の労働法をゼミに入った。卒業時に結核の再発で留年を余儀なくされたので卒論を出さず卒業後も恒藤先生から石田君はなぜださなかったの?いわれた、それには訳があった。労働法で「労働契約の自由と制限」をテーマに書いていたが、後輩岡本武夫君が私の病気を知りわたしから聞き出し代筆してくれていたので出せばよかったのをなんとなく気が進まなかったのである。しかし田畑先生の憲法は85点岡本先生政治学90点をもらい、同学年ではおそらくトップクラスであったはず。恒藤先生労働法は残念ながら65点であった。
マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

恒藤ゼミ仲間にはT田雄一郎君がいる。彼はS野君と同じ富山の高岡の出身で1年後輩であるが、同志社では同年生である。彼は親が薬品会社を経営していたので学生生活は十分経済的に満喫していた。同じゼミであったがひとかどの理論(屁理屈野郎)であり、激論交わすことしばしばで現在は製薬会社を無事勤め上げ、いまもゴルフ仲間であり国内、海外のともに楽しんでいる。
その他友人で印象に残るのはS田陽一君(福岡相互銀行勤務)Y田宣冶、H谷川昌三君。女子では旧姓ではA.Yさん(長野県上田の出身で小柄な美系で当時「チボー家の人々」を読んでおり、学生運動家の間では憧れの人だった。)、T.Mさん(京都同志社中、高校の出身で井上流の町かたさんでは最高の使い手、能楽も舞い典型的な京都の女性いつもにこにこ顔で心を癒しくれる。)、A.Nさん(故人)(眼のきらきらした賢くて品の良い女性で、授業には皆勤でよく勉強ができ彼女からノートを借り、後輩の女性に移させ単位習得できた。卒業後、早く病院経営の医者の男性と結婚したが、60歳の若さで逝去)、後輩ではO本武夫、K原大八、U城久美子(K原夫人となる)、W田穂波(卒業後函館の名家さんに嫁ぐ)さんたちです。

同志社時代(1)

一浪した昭和30年夏、父の常治が死んだ。その頃から、石田の実家の商売だった神戸中央市場中卸業が軌道に乗り始めていたこともあり、経済的に心配しないようになった。幸い同志社大学法学部に無事入学でき、鈴蘭台の実家から通うには3時間かかるため京都で下宿生活を送れたことが、いままでの暗い高校生活から脱皮する大きな機会となり、バラ色の大学時代を謳歌することになった。その舞台を作ってくれたのが同志社である。なにもわからず初めて登校した印象は高校とは別世界であり、燃えるような新緑の御所に隣接したレンガつくり校舎、カラフルな女子学生の服装、張り紙の過激な言語、なにもかもいままでにない未体験ゾーンでワクワクのスタートだった。
初めて下宿したのが銀閣寺の近くの3畳一間の部屋である。同じ同居人で東京から同志社大学3回生のE藤さん、四国の宇和島出身の立命館大学4回生U宮さん、計3名である。銀閣寺の近くに学生相手に食堂があり1食100円程度(確か素うどん20〜30円だった。)で食べることができた。銀閣寺から同志社前まで市電で10分、いよいよ登校だ、入学式でもらった単位のとり方で必修科目と選択科目があり水曜日は11時からチャペルアワーで講演と祈祷がある。スポーツや学術部の勧誘が行われており、同志社法社会学研究会(同法会)籍を置くことになった。もちろん当時はノンポリで法律研究会もあったが、なんとなく法社会学のほうが新鮮味に感じたのは動機にすぎない、それがその後自分の人生に大きく影響するとは夢想だにしなかった。英語は必修科目で入学試験の英語成績順によってクラス別にされていた。自分では英語出題の英訳が3問中2問はできたが、3問目が時間足らずで最後まで書けなかったので、まさかA組1クラス入るとは何かの間違いではないかといまでも思うが、この時に合格者約500名中50名以内には入れるとは驚きであった。
そのようして同志社の学生時代が始まった。毎日通学してはじめは必修科目には出席したが、選択科目は出欠を取らないとがわかりだすと徐々にサボりだし同法会の研究会の部屋に顔をだすようになった。同法会のメンバー当時の法学部の学生運動のメンバーと法学をまじめに勉強しようとするメンバーが混在していた。私自身は先輩たちのなかで、学生運動華やかし頃で社会のいろいろな矛盾を解放すべるには弱者擁護の法理論にだんだんと傾きだし、1回生の後半には自治会の委員に立候補するまでになっていた。その頃は自治会の主たるメンバーが共産党員であることをはじめて知った、彼らから幾度となく誘いを受けたが、どうしても共産党員でなければ学生生活が改善できないとかれらが言う理由が自分でもわからないので断った。しかし砂川闘争に関東まで出かけたりもした。その当時の全学連の副員長N野寺さん(東大生)書記長K島さん(明大生)である。のちに知り合い、いまだに交流がある。