何となく75まで生きにけり

今、田中清玄自伝を読んでいます。田中清玄(1906−1993)は東大大学中に共産党に入党し獄中に転向大物フイクサーとして日本国内はもとより中東やインドネシア、中国など国内外で活躍した。

田中清玄自伝 (ちくま文庫)

田中清玄自伝 (ちくま文庫)

田中清玄の師匠山本玄峰老師は昭和天皇に「忍びがたきをしのび、耐えがたきを耐え」昭和20年8月15日の終戦勅語を進言する。その玄峰老師の言葉「本来無一物、これ無尽蔵」これが今の私にふさわしい教訓です。
私はこれから*1の5年間、80歳まで健康体を維持して最後のミッションを果たしゴルフ、読書、放浪ののち「この世で人はほんの短い時間を土の上で過ごすに過ぎない。仕事して、愛して、眠って、ひよっとある日姿を消すのだ、人は大きな樹の中に」*2を切望しています。

さて、貴方は何歳まで生きるつもり?

吉田松陰…28歳 夏目漱石…49歳 小唄勝太郎…69歳 丸山千里…91歳
佐伯祐三…30歳 松尾芭蕉…50歳 榊原汗…69歳 土光敏夫…92歳
小林多喜二…30歳 西郷隆盛…50歳 江田三郎…69歳 淡谷のり子…92歳
シューベルト…31歳 竹久夢二…50歳 江戸川乱歩…70歳 井伏鱒二…94歳
三遊亭歌笑…31歳 岡本かの子…50歳 大宅壮一…70歳 松下幸之助…95歳
坂本龍馬…31歳 バルザック…51歳 柳家金語楼…70歳 松永安左衛門…95歳
松井須磨子…33歳 プルースト…51歳 笠置シヅ子…71歳 梅原龍三郎…98歳
織田作之助…33歳 岩崎弥太郎…52歳 棟方志功…71歳 宇野千代 …99歳
正岡子規…34歳 石原裕次郎…52歳 川端康成…73歳 牧野富太郎 …105歳
芥川龍之介…34歳 美空ひばり…52歳 久保田万太郎…73歳 小倉遊亀…105歳
近藤勇…34歳 阪東妻三郎…52歳 朝永振一郎…73歳 泉重千代…121歳
モーツアルト…35歳 シェイクスピア…52歳 升田幸三…73歳 ジャンヌカルマン…122歳
バイロン…36歳 ナポレオン…52歳 伴淳三郎…73歳  
マリリン・モンロー…36歳 小泉八雲…53歳 伊東深水…74歳  
尾崎紅葉…36歳 有吉佐和子…53歳 湯川秀樹…74歳
楊貴妃…37歳 ゲーリング…53歳 佐藤栄作…74歳
ゴッホ…37歳 ベーブルース…53歳 三木のり平…75歳
国木田独歩…37歳 グレース・ケリー…53歳 横山エンタツ…75歳
メンデルスゾーン…38歳 火野葦平…53歳 大佛次郎……75歳
市川雷蔵…38歳 巌本真理…53歳 田辺茂一…75歳
岸田劉生…38歳 デカルト…54歳 黒岩重吾…75歳
クレオパトラ…39歳 レーニン…54歳 鳩山一郎…76歳
パスカル…39歳 ゴーギャン…55歳 花菱アチャコ…77歳
ショパン…39歳 鲁迅…55歳 三船敏郎…77歳
太宰治…39歳 大川橋蔵…55歳 嵐寛寿郎…77歳
力道山…39歳 越路吹雪…56歳 藤原義江…77歳
石田三成…40歳 古川ロッパ…57歳 徳川夢声…77歳
国定忠治…40歳 種田山頭火…57歳 小泉信三…78歳
カフカ…41歳 開高健…58歳 由利徹…78歳
アベベ…41歳 福地泡介…58歳 武見太郎…79歳  
楠木正成…42歳 高見順…58歳 今東光…79歳
プレスリー…42歳 菊池寛…59歳 大岡昇平…79歳
柳生十兵衛…43歳 亀井勝一郎…59歳 扇谷昇平…79歳
ゴーゴリー…43歳 小津安二郎…60歳 ミヤコ蝶々…80歳  
モーパッサン…43歳 手塚治虫…60歳 三木鶏郎…80歳
田宮二郎…43歳 柴田錬三郎…61歳 櫻田武…81歳  
坂本九…44歳 藤山寛美…61歳 小林秀雄…81歳  
有島武郎…45歳 宗像誠也…62歳 松本清張…81歳
三島由紀夫…45歳 鶴田浩二…62歳 土門拳…81歳
梶山季之…45歳 森正之…62歳 古今亭志ん生…83歳
江利チエミ…45歳 若山富三郎…63歳 小林一三…83歳
ボードレール…46歳 山本周五郎…63 益田キートン…84歳
ケネディ…46歳 武田康淳…64歳 西堀英三郎…86歳
ネルソン…47歳 岩波茂雄…64歳 長谷川一夫…86歳
カミュ…47歳 菊田一夫…65歳 昭和天皇…87歳  
聖徳太子…48歳 萬屋錦之介…65歳 黒澤明…88歳
織田信長…48歳 榎本健一…66歳 吉田茂…89歳
三木清…48歳 尾崎士郎…66歳 石橋湛山…89歳
寺山修司…48歳 池田勇人…66歳 石坂泰三…89歳  
カポネ…48歳 成田知巳…66歳 笠智衆…89歳
堀辰雄…49歳 河野一郎…67歳 淀川長治…89歳
フランキー堺…67歳
矢内原忠男…68歳

*1:現在、75年と8日。

*2:by詩人の長田弘

最後のミッション

来週の5月25日で75歳を迎えます。
すでに後期高齢者医療保険証が届きました。もはや会社の厚生健康保険受給証も5月24日で終了です。現在は体調に異常はなく去る12日のゴルフ会合で98のスコアがでて、本年はじめて100が切れて喜んでいます。しかし、75歳は現実そのものです。
竹内まりやの「人生の扉」 You say it's alright to be 70♪です。
70歳を超えると何をしても許される。*1

同年輩の訃報が多くなりました。なんらかの病気にかかる友人も枚挙にいとえません。むしろ健康体の友人の方が少なくなりました。淋しい限りです。
これからどう生きるべきか、具体的に思考して行動していこうと思います。
第一に住環境を変えることです。現在の家は海抜285mの高台にあり、眺望は大阪湾が一望でき夏は涼しく冬は寒いが南向きのため天気の良い日は温かい。しかし、自動車での移動が不可欠です。在宅の孫が小学校6年生で、娘が来年再婚するのを機に便利の良いマンションに変わる予定です。そのためにいろいろ処分をはじめました。おそらく1年後には住居変更案内が皆さんに届いているでしょう。
30年近く前に建て3人の子供を育て、3代にわたる愛犬、そして一度手放した娘と孫も一緒に暮らし、おそらく想い出は尽きないでしょう。仕事も丁度10年前に息子に譲り、順調に成長させておりますので、持ち株も生前贈与をしました。健康体であれば会社には顔を出したいと思っているので、会社に近いマンションに移ろうかと思います。
人生の終末になればあと何をなすべきか、難しい課題です。広い、深い意味で後継者をどう継承させるか、ボケが始まればダメでしょう。現在60歳前後の友人ができ、是非彼らに私の生き様を見せながら、より前へ進んでもらいたいと強く望んでいます。これからの日本をどうあるべきか、隣国の脅威、特に中国(尖額諸島)、ロシア(北方4島実効支配)からどう護る「日本国家の神髄」(佐藤優著者)を案じつつ、わが町神戸を活性化させることに最後情熱を出したい!!
先日、幕末の賢人横井小楠の「舌剣奔る」を読み、彼が勝海舟坂本竜馬高杉晋作に大きな影響をあたえ*2明治維新が外国に植民地化されることなく開国できた。横井*3が残した熊本洋学校がのちの東京農業大設立、同志社創立時に影響を与えたことは歴史が証明している。

舌剣奔る―小説 横井小楠

舌剣奔る―小説 横井小楠

最後に私なりの健康法をいつもながら列記して75歳のたわごとで終えたい。

座右の銘

食事法はフルモニ(fruit morning)

  • 朝に大皿いっぱいフルーツを食べる*4
  • 黒にんにくを三片。
  • プロテイン入り生姜粉末+beepollen(蜂蜜の花粉)のジュース。

朝だけが私流で、サプリメントは止めた。

運動

いま週4〜5回ジムに通っています。
筋トレ、マーシンで早歩き30分程度、水泳少々、ゴルフ打ち放し60球程度、サウナでたわいもない会話で約2時間半です。たまたまジムが外人専用であるので下手な英会話を楽しみながら…。

この文章を書いている間に児玉清氏(俳優)の訃報が入る。彼は昭和9年生まれで2歳年上、読書家、散歩好きで体調管理に十分配慮してきた人だ。いつお迎えがくるか誰も自分のことはわからない。
いまの健康が維持されている限り「人生最後のミッション」にまい進させ燃焼させたい。

*1:だからと言って、大したことはできないのですが…

*2:但し62歳で暗殺される

*3:肥後人で越前へ藩改革に取り組む

*4:特にリンゴ、ブルベリー、バナナ、+季節の果物

会社の歴史(2)

会社の歴史(1)のつづき…

1975年(昭和50年8月1日)、MVM商事の誕生である。当時社員はT井君だけで事務所はS研究所に同居していた。その後S水、K脇をいれニュージーランド、オーストラリアのオニオンから始めた。時世は沖縄返還の際の佐藤×ニクソン会談で、農産物の自由化が密約されており、日本高度経済成長で農村から大都会への労働人口の加速に伴い農村人口が急激に減速し、貿易で稼いだ金を地方の公共事業に投資した。唯票田しか考えない農政無策が、まず果実がバナナ、オレンジの自由化で当時栽培が始まったばかりのフロリダのグレープフルーツが解禁され、利権に守られていた。N本貿易、F井商店、K洋行に変わる新興勢力が台頭し、我社もその恩恵にあずかった。たしか田中内閣の時、竹下大藏大臣が蔵相サミットで為替を自由化し円高を容認したことで農産物がドドットと入るようなった。

1978年アメリさくらんぼ、解禁になるとの報を聞いたのはK原君*1からである。Y野、K原、I田でトリオを取り組み、早速、同志社の先輩である土井たか子さんに農林省を紹介してもらうことになった。紹介されたのが、当時日米農難物交渉の当事者である小島審議官*2で、直ぐにアメリカ大使館農務担当者 K宮さんを紹介してくれた。しかし、アメリカ大使館へ訪ねたが、すでに200社以上申し込みあり、M菱商事、M井物産、I藤忠、M紅、Z農、N園連ほか10社程度内定しており、いまさら無理だと断られる。農産物はすでに自由化されており、誰が買ってもよいのではないと抗弁し、ワシントン州ヤキマで行われる日米のさくらんぼ会議でわれわれも紹介するよう求め、Y野、I田が強引に現地に乗り込んだ。会場でアメリカ大使館の農務官であっるM宮植防課長とK宮さんから日本からどうしてもさくらんぼ買いたいバイヤーいると簡単な紹介しか受けなかったが、名刺を交わし、翌日から一軒一軒ドアーを叩いてまわった。現地をまわり、誰がこの輸出権をもつているか等を探っているとSEAから日本行きの直行便NWしかなく目下労働スト中*3で運ぶ手段がないことが判り、日本に帰国するや、再度土井たか子さんに頼みこんで、当時運輸大臣だった田村元さんとランチをとりながら、日航社長へ電話をしてもらった。「飛行機をチャーターしてください。」と頼み込んで、快託を得ると1978:7:3ETDの727SEA−NRT約900万円を振り込み、その足でSEAへ引き返した。それを武器に再度輸出権をもとパッカー、グロアーを精力的廻った。当時はどう運ぶかをわからないまま割り当てていたので、彼らもNWストライキの影響を十分理解せず、ことの重要性が間近になって慌てはじめて、我々にも売ることも考え始めたようだった。
やっと、2〜3のグロアー、パッカー、輸出権者が興味を持ち始めた。なんとか3軒が承知してくれ、第1便はウエナッチ、ヤキマ*4から1240ケースをSFOに1978年7月3日の解禁日にNRTにつけた。私自身も成田で待機して植物防疫検査に合格するやいなや、K原の乗用車に積み込めるだけ詰め込み自分で運転して銀座の松屋に向けて走ったTVカメラが待ち受ける中、降ろすやいなや20分足らずで完売した。コスト10,000円で売価20,000円だというのに、池袋西武デパート等で瞬く間に売りつくし1,000万円近い利益を一晩で稼いだ*5。その夜は六本木でドンチャン騒ぎをして豪遊したのだった。
この成功はMVMの伸張に不可欠であり、大きな自信と事業拡大の起爆剤となった。アメリカンチエリーを成功させたことで航空関係者と親しくなりNWのY田さんと知り合い、LAのホールセイラーO青果で働いているF原君*6とも出会った。F原君はLA留学中にメキシカンの女性と結婚して、横浜の両親とは勘当状態にあったので、日本との青果の商売をすることで、日本との往来できるよう熱望しており、情熱とアイディアを持っていた。そこで、メキシコで義理兄弟に日本のカボチャを栽培してもらう決心をし、タキイ種苗の種をメキシコのクレアカンで2〜3HA分を作付けた。トマトの裏作の土地であったが1コンテナー分ぐらい出来上がった。それを日本に持ち込んだところ、美味しいと評判を呼び、翌年には一気に20HAに拡大した。どのスーパーにはなしても乗り気で原価倍ぐらいで売れF原君も専業させることでO本社(ノガレス)に入社。それが1979年秋である。
その後、1985年(昭和50年)春に私は心臓の手術を受けた。
これ以降のお話は、またの機会に。

↓すっかり元気になって、1992年カリフォルニア、全米オープンが開催されるペブルビーチリゾートでゴルフ。

*1:当時力王=地下足袋

*2:故人

*3:180日およんだ

*4:weanachee,yakima

*5:ああ、あの頃は楽しかった。

*6:現O社副社長

会社の歴史(1)

少し時間をかけ当社の創業、いやS研究所の経営をしたあたりまでを遡り書き留めておきたい。

1972年(昭和47年)2月頃、当時私が住んでいた渦が森団地へ、兄と母親が突然訪ねてきた。当時I田青果はスーパーDへの青果納品業者のNO.1であり、順調で商いも30億を超えて、中央市場では第一位の売上であったが、人間関係のもつれで収拾がつかないと深刻な面持ちで相談してきたのだ。もうスーパーDとの仕事を止めたいと言い出す程に、兄も母も憔悴しきっており、その代わりの仕事として、1970年の大阪万博で成功させたM本氏が創業したS研究所が、M酢に売却したが経営がうまくいかずに困っているため、買収して経営をしよう考えているとのことだった。そして、その買収交渉してくれと懇願されたので、毎週土曜に愛知県知多のM酢へ通って交渉し、4月頃にある程度話がまとまりかけたので、誰がこれを経営するのかと兄、母に聞いたところ、「適任者はお前だ!」言わたのがはじまり。当時勤めていた会社に退職願い出したが、強烈な慰留にあい9月1日までかかってしまった。

買収は6月に終えていたので、その時点でH川を先発隊で送り込み、10月ごろ経理のH田を入れた。当時のS研究所はM酢からの派遣技術者とM化学の退職者で構成されていたが、仕事も半日程度しかなく、昼からは卓球台を出して遊んでいた。そんなところにド素人の自分が飛び込んだものだから、経理責任者が辞表だし、取締役総務部長は10時ごろ出社して3時には居ない、有様であった。私は実家が青果業であったが、恥かしながら当時はレタスとキャベツの見分けすらできないので、必死になり現場に毎日入り作業した。と同時に当時の納品先が学校給食オンリーで総卸をT平商事に牛耳られ、N城食品、N良食品と三重層で300円/kgが末端では500円を超えてしまい、累損が800万円となるのが危機状況であることを知る。これを打開するため各社を宝塚に集め、8時間に渉り、各社に直売することを認めさせ、T平商事には300万円のリベートを3年間払うことで決着した。これで売価が400円近くなり、その翌年から黒字化できた。
それからは営業に精を出したことから、学校給食も1975年10月頃には月間100トン近く(岡山、高松、兵庫県、大阪、京都、滋賀、岐阜、愛知県等)までとなった。毎日のように徹夜作業が続いたが、学校給食は生徒1人当たり年間食x180食で金曜日、夏休み、春休み、冬休みなどがあるため、学校給食だけでは経営安定が計れないと考える。しかし、1975年には3000万円の経常利益を出し、M酢の買収金を含め全て債務を一掃できた。

*1ここで付け加えことは1973年に起こった第一次石油危機である。1バーレル2$が12$に跳ね上がり、トイレットペーパーがなくなるとの噂で買い占め騒動がおきる。冬場の野菜もトンネルやハウスのビニールが無くなり、ハウス農業ができなくなる。このままでは我社もダメになると危機感をもった私は、当時返還されたばかりの沖縄へ飛び沖縄県農政流通室長H田氏に会い沖縄でレタス栽培ができないかと打診し、紹介された豊城農協で契約栽培をはじめることができた。同じ頃、アメリカのレタス王であるMファーム当主が当社を訪ねてきて、「これからは、このカット野菜のビジネスはアメリカでも台頭しており必ず成長する、できれば直ぐにアメリカへきて見てみなさい。」とのアドバイスを受け、1973年3月に急遽訪米して、Mファーム他を見学させていただいた。当時Mファーム(サンタマリア)は7000エーカーの畑をもちレタス、ブロッコリーを生産しており、Mさんからこれからはブロッコリーが食卓に上ると聞いたが、日本ではブロッコリーを知る人が殆どいなくて聞き流してしまった。

一方、学校給食に続く第2弾を早急に開発しなくてはならない。そのころスーパーが胎動しはじめており特にスーパーDの伸張は目を見張るようであり、スーパーDを訪ねアメリカの近況を伝え是非スーパーDでカット野菜を売って欲しいと営業した。スーパーDが早速採用してくれたお陰で金曜、土曜の作業ができ会社が軌道に乗り始め、他のスーパーも採用しはじめて超忙しい毎日となった。
そのころ私の友人であるI田H信*2が、Y野S巳君を連れてきた。Y野君は大阪堺の出身だが神奈川県藤沢で剥き玉の仕事をしていた。資金的には困っていたが、精力元気いっぱいで、毎週日曜の朝に藤沢から伊丹までカローラを運転して訪ねてきて、二人で淡路の玉葱屋であるT永商事と商談を繰り返した。淡路の玉葱屋とは商売になったが、儲かったつもりが集金にいくと値切るので結果は儲からない。彼らの支払いが遅く、資金が寝るという弊害が残った。しかし、今となってはとてもいい勉強になったと思っている。Y野君と知り合ったことで、農産物の貿易を教えてもらったし、オーストラリア、ニュージーランドを訪ねたのもその頃である。そこでやっと、貿易会社を創ることになった。
会社の歴史(2)につづく…

*1:1974年CAサンタマリアMファームにて

*2:当時F三商会役員

国民への警告

民主党国会議員のメールへの返事。

民主党再生のカギは全党あげて被災地に入りボランチア活動に専念すべきです。理論や理屈を述べても本気度が見えない、官邸を仙台に仮設して避難者と共に宿泊をしてこそ「政権交代」の実感を国民はするでしょう。

「農業経営者」2011年5・6月合併号アンケートへの私の回答

農水省JAS法の欠陥が暴露された。「茨城県産ホウレン草」に基準値(ヨウ素、べクトル、シーベルト?)が検出されたと官房長官が公報した途端全ての茨城産の殆んどの農産物が消えるか買い手が就かなくなった。茨城県の面積は広く北から南まで300キロ程度ある。私は農水省都道府県別区分け表示の無意味さを指摘したがガンと聞き入れなかった。原発被害を科学的に個々、刻刻と検査して出荷停止すればよい。わが兵庫県民には例が悪いが尼崎で汚染が起きて丹波、但馬地区まで「兵庫県産」まで危険と言われたらどうなるか推測すればよい、農水省の植物検疫官600名ぐらいいるはずだ、厚生労働省には1000名以上専門役はいるはず。彼らを動員すればそれぐらいの仕事は簡単だ。縦割りの弊害を今こそ取り除き関係役人は責務(仕事)を果たすべきです。JAS法は全く科学的根拠がない!!

民主党、東電にもの申すに対する友人からの意見

  • 国会議員はなにをしているのか300名以下で十分であることが判明した。
  • 彼ら作業服を着てテレビ会見しているが、全然汚れていない、これは任務を果たしていない詐称である。
  • 今政府日銀は輪転機をフル稼働して円を20兆円以上刷り被害者たち無担保、無利子、無審査で配り復興を急ぐべきである。おそらくドル/円も150〜200円になり日本の輸出産業は世界に羽ばたき30兆円以上稼ぎだし最先短で復興する。
  • 東電は経営能力がないことが露見した。

取締役以上の総退陣はあたりまえ、JAL破たんは特定関係者に損失をあたえたが東電の福島原発は全国民に被害を与え原発の安全性神話崩壊は全世界に及んでいる。したがって解体し再構築しかない。一時国有化をして根本から再出発すべき他の8電力会社も同様だ。

毎日、毎日地震津波原発の映像が流れて流言飛語が飛び交い疲れてします。幸いあと60日足らず75歳を迎えるのでわが余命はたいしたことはない。
歳をとるとヒツコクなるとまわりから煙たがれる。
しかし世界はコクコクと動く、わが世代で終わらないこと祈念するのみである。

民主党、東電にもの申す。

どうやら民主党の統治能力の欠如が判明してきました。それは危機管理が彼らの能力を超え「神のみど知る」の担当大臣の本音に表れています。ある新聞のコラム欄によれば「危機」の対極は「安全」でなく「リスク」である。今の政府にはリスク対応能力がありません。東電は一時国有化をして再構築しかありません。皆さんのご意見はいかがでしょうか?

3月11日、東北関東大震災以降、毎日「ベクトル」「シーベルト」等の放射能汚染の測定値を放射能専門の科学者が入れ替わり連発しており、国民は一喜一鬱している。日本政府は国民を安心させるため「茨城県産」のホウレンソウを1年間食べ続けても1回MR(放射線を使う治療検査装置)を受ける程度でしかないというのに。そして、セシウムプルトニュウムが流失して、基準値の何千倍とか報道されると何を信じてよいのか、政府の対応のまずさが露見しきた。まず、地震のマグネチュード発表も当初8.2程度と政府、マスコミは報道したが、まさにその時アメリカのCNNは8.9度とテレビで放映していた。もう最初からこれで、これば津波の測定に影響し初動操作が遅れさせたのではないか?後ほど9.0度に修正したが、はじめに8.9度以上と公表し、大津波の来襲を警告しておれば2万7千人を超える死者・行末不明者の大半が助かったのではないか?
東電の対応のまずさも許し難い。社長以下が陣頭指揮で必死の形相で我が国ライフラインを護る姿が見えない、広報担当者のもたつきライフラインを担う責任自覚の欠如、さらに東電は福島原発を40年以上使用して(技術使用期限30年程度10年近く放置してタダ儲けていた!)、バックアップをしていないことは、我が国の「原子力の安全・安心」が嘘であったと示しており、全世界の信用を失遂させたことは万死に値する。東電役員以下は総辞職、役職者は50%、社員20%、今後給与を引き下げるべきではないか?これは関電、中部電以下も内部は同様あろうと推定できる。なぜなら彼らの給与が国民平均所得430万の3倍を越えており、それは我々の電気料金から支払われている*1のだから。
いま米軍は「TOMODACHI作戦」を福島沖に空母、他13隻を配置して原発装置の放水、取り残された住民に飲料水、食糧を支援してくれている。私の住む神戸でも、近所に住んでおられたフランス人(ワイフは日本人)は、母国からすぐに帰国命令が出て、さっさと帰国してしまった。我々日本人は逃げていく場所がない、ならば政府関係者が総力を挙げ福島原発の核汚染を封じ込め、安心して住める日本再構築100年計画を、小手先ではなく革命的(遷都を含め)な世直しをすべきであろう。

*1:要調査

日本再生の道程

やっとわかりはじめた中国のおそろしさ。

北朝鮮拉致問題でいかに理不尽な国家であることを我が国民も知り、いまだに脅迫外交で核を振りかざす金王朝堅持に死守してもがいている。その北朝鮮を援護してやまない国が中国である。中国と北朝鮮は利害関係が合致していることが、今回のノーベル平和賞の劉曉破氏で中国の非民主主義が北朝鮮と同じ幹から出ていることは間違いないと証明した。中国は世界第2の経済大国にのし上がったのにかかわらず、国際ルールを守らず自国に不都合なことは「中国は発展途上国だ。」国際会議等で公言してCO2の削減規制するCOP10に反対して世界最大のCO2を垂れ流し、一党独裁で少数の人間だけが豊になり、自国民を抑圧し少数民族チベット内モンゴル人を弾圧している。北朝鮮の金独裁の核保有を事実上黙認して「緊急6ヶ国協議の開催」を持ち出して北朝鮮制圧をだらだら引き延ばしているのは明白だ。我が国も6兆3000億円のODA自民党政権時から中国に付与し、彼らの経済発展躍進に多大援助をしていたにも関わらず、中国政府はその事実を一度も公表し我が国に謝意もせず、今回の尖額諸島の中国漁船の暴挙に菅政権は暴徒を捕獲したにも関わらず、中国の弩喝に屈し釈放してしまいビデオの公開すら自らできず、ビデオが流失したら犯人探し躍起になり国民がこの措置に呆れ、しぼんでしまった。私は尖額諸島をはじめ南シナ海日本海の離島が危ないと、幾度となく警告を時の政権与党に宮古島に隣接する下地空港を推挙してきた。下地島は3700メートルの滑走路が完備している無人島である。島民不在に着き反対するのは伊良部島住民だけで、沖縄知事も反対できまい。徳之島でもやり方によれば説得は可能であろう、沖縄本島から切り離しその近くに探せばかならずある。中国を信用してはならない。彼らは必ず尖額のみならず沖縄まで取りに来る。ロシアが国後択捉諸島を占拠して返さない教訓を学べ、これらの危機を招いたのは日本国憲法の平和主義の偏して平和ボケしてきたことに起因している。自衛隊を軍隊にかえ自国民を自分たちでまもる。当たり前のことをやることにやっと気づき憲法改正への機運がやっと中国、北朝鮮の暴挙でチャンスが来たことを喜ぶべきではないか。

国家観のない管総理

管総理はかねて「オーリブの木」なるものを唱えてきた。これはイタリヤの左派運動の代名詞であって、日本国家観と非なるものでしかない。彼が任命した岡崎トミ子国家公安委員長はまさに「オーリブの木」の思想を具現化したような女性で、国家を必要悪とみなし、韓国まで出かけ「従軍慰安婦」問題で日本国の乗用車を使い日本大使館にデモした女性。公安委員長が北朝鮮の暴挙をTVで観戦して、なんの危機感も反応も持たない情けなさである。そして、情報戦略が国家防衛のカギになるインテリジェンス戦争の21世紀に、岡崎のような左派思想の持ち主を任命した管総理には、我が国の未来像を描けるわけがないと確信する。

TPPは我が国の新しい夜明けだ。

環太平洋経済共同体の創生は、わが日本の低迷し疲弊した国民の大いなる希望をもたらす。輸出を基本に経済大国に上りつめた日本経済にはTPPは絶好のチャンスだ。現在2〜3倍の輸出が可能になり、雇用創出が拡大してGDPも上がり国民所得も1.5〜2.0になるだろう。輸入も拡大するが輸入物価が下がり国民生活も豊かさを実感は今の倍増は間違いない。相も変わらずJAをはじめ農水関係者は「オオカミ族」だ。我が国は世界第5位の農業大国であること隠し、食糧自給率を不当に操作して農業特に主食米が壊滅する蝉声するが、米農家はほとんどが兼業農家で彼ら年間10日ほどしか農業を就かない。10日で生計を立つならだれでも農業者になる。専業農家は日本米を輸出でき、海外の日本食レストランは国内価額の倍増で購入してくれている。TPPは物の自由化だけでなく、さらに多他国を往来することで民族の文化交流をもたらし、我が国に無限の「しあわせ」与えるだろう。中国、北朝鮮も無視できなくなり、1党独裁も崩壊するだろう。そして彼らも国際ルールを守らざる得まい。そうなれば我が国への軍事危機は半減いや皆無になる?恐らくあと20年以内に世界はTPP効果で繁栄しているか、中国、北朝鮮の暴走で壊滅しているか分かるが私は94〜5歳だ。はて、観れるかな?!